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〈翻訳いろは〉「こりすぎると興ざめ」

(2021/12/29)

 もう35年近く前になりますが、母校の大学で中村妙子先生の翻訳演習の授業を履修しました。半期の講座で、定員は(確か)20名。受講資格は3年生から。いつも希望者が定員を超えるため、卒業を間近に控えた4年生が優先。3年生は前期から希望を出しても後期にならないと受けられませんでした。

 「こりすぎると興ざめ」というのは、その翻訳演習のクラスで中村先生が教えてくださった〈翻訳いろは〉のひとつ。〈翻訳いろは〉は先生がお仕事をされるなかで考えられた翻訳のコツを(おそらく学習者にわかりやすく伝えるために)調子のよい短い言葉にまとめられたものです。先生は授業中に学生の訳文を検討しながら、該当する〈いろは〉について説明されるときもあれば、いくつかまとめて教えてくださるときもありました。細かい部分はときどき変えたりしていらっしゃるというお話だったので、わたしと違う時期に先生の翻訳演習を受講された方は「あれ、自分のときと違うな」ということもあるかもしれません。

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↑授業中にとった〈翻訳いろは〉のメモ(右端欄外の赤字)。「語尾にも神経を」「文の構造を把握する」)

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↑まとめて教えてくださったときのノート。いま読み返すと「ああ、この時点でもうこれを教えていただいていたんだなあ」と、実践できるようになるまで時間のかかっている自分にため息が出ると同時に、あらためて感謝の気持ちがこみあげてきます。

 わたしはもともと意訳が得意ではなく、硬い訳文を書くタイプでした(と過去形にしていいものか……)。数年前からようやく「こういう訳し方もありかも」と思うことが増えてきて、以前よりも自分のなかで訳文の選択肢が増えたというか、自由度(?)が少しあがったように感じているのですが、そんな変化のなかで特に気をつけなければと思っているのが、この「こりすぎると興ざめ」なのです。わたしの場合、「凝る」というよりは「やりすぎ」に気をつけると言ったほうが適切かもしれませんが。インパクトが強い訳語、自分が使いたいと思っていた言葉、やってみたいと思っていた訳し方が頭に浮かんだとき、「それ、本当に必要? 原文に合ってる?」と自問することは、きっと多くの翻訳者がやっているのではないかと思います。わたしの場合、中村先生の「こりすぎると興ざめ」という〈翻訳いろは〉を思いだすことが、一度立ち止まるきっかけになっているのです。

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 さて、きょうは中村先生が訳された『おやすみなさい トムさん』(ミシェル・マゴリアン著・評論社)から特に印象に残っている場面を少し引用したいと思います。母に虐待されていた少年ウィリーが、疎開先で頑固でぶっきらぼうながらも実はやさしい老人、トムさんに出会い、ふたりの心に変化が生じていくという物語です。

「キャンデーを一つと漫画本を一つ、選んでいいよ」
ウィリーはたまげたように目をみはった。
「ゆっくり選んだらいいわ、坊や」とおばあさんがやさしくいって、キャンデーの容器を指さした。
「フルーツ・ドロップ、ファージング・キャンデー、ミント・キャンデー。棒つきキャンデーもあるわ。とてもよく出るのよ、これは。種類は苺、レモン、ライム、オレンジといったところかしらね」
 トムはウィリーがさっぱり反応を示さないので業を煮やし、つっけんどんに促しかけてウィリーの表情に気づいた。
 ウィリーは何度も生唾を呑みこんでいた。好みのものを選べと人にいわれたためしなど、生まれてから一度もなかった。
「棒つきキャンデー」と彼はようやくいった。
「味はどれ?」
 ウィリーは眉を寄せた。どうしよう? 「じゃあ——苺の」興奮のあまり、しゃがれ声でいうのがやっとだった。
(『おやすみなさい トムさん』66頁から)

 欲しいものを買ってもらったことなど一度もないウィリー。彼が色とりどりのキャンデーやあざやかな色の漫画本を前にしたときの喜びを想像すると、こちらの胸が苦しくなるほどです。わたしが翻訳を担当したアレックス・ジーノの『ジョージと秘密のメリッサ』には、体は男の子、心は女の子のジョージ(メリッサ)が親友ケリーの家で、クローゼットいっぱいの女の子の服、化粧品、香水などを前にして静かに喜びを爆発させる場面があります。その場面を訳すとき、「あんなふうに主人公の喜びが伝わるように訳せたら」と、わたしのなかでは『おやすみなさい トムさん』の上記の部分がずっと頭にありました。

 『おやすみなさい トムさん』は邦訳が1991年に刊行され、版を重ねて現在も入手可能です。とはいえ、いつ版元在庫なしとなるかわかりません。いままた少しずつ読み返しているところなのですが、大人にとっても読みごたえのあるすばらしい作品です。ここで訳者あとがきからも少し引用します。

 のどかな前半と、はらはら気を揉ませる後半。とくにトムによるウィリアムの思い切った奪回作戦とその成り行き、(中略)ドラマティックな展開は、読者をぐいぐい引っ張って一気に終わりまで読ませるでしょう。しかも、いたずらに感傷に流れるあぶなっかしさをまったく感じさせません。戦時下のイギリスの庶民の生活を、ロンドンと地方の小さな村との両方にわたって知ることができるという点でも興味ふかいと思います。

 年末年始に読むものをお探しの方はぜひ!

 2021年もきょうを含めてあと3日となりました。みなさま、どうぞよいお年をお迎えくださいませ。来年もゆるゆるとおつき合いいただければ幸いです。

プロフィール

島村浩子

Author:島村浩子
東京下町在住の翻訳者。ミステリ・ロマンス・ノンフィクション・児童書など訳してます。本のほかに映画・洋楽・ミュージカルが好き。
Twitter: @rhiroko
Instagram:@reepicheeph
Fedibird(マストドン):@rhiroko
Bluesky:@rhiroko
タイッツー:@rhiroko
訳書一覧はWorks 仕事をご覧ください。

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